☆誕生〜

 

三重県鈴鹿市のとある田舎
恰幅の良い父と美人な母の間に生まれる
7つ上の姉と5つ上の兄がいて
父方の祖父母も一緒に暮らしていた

父も母も末っ子の私を可愛がってくれた

母は病気がちで入院することも多く、また家計を支えるため仕事もしていたため私は祖母に面倒を見てもらうことが多かった

母は家にいないし、祖母の言うことはあまり聞かなかったため、私はだらしない生活習慣を身につけた

人見知りで、おとなしく、そして太っていた

おっちゃくい子のからかいの的だったため
その子たちのそばを通るときはいつも「私に気づきませんように!」と祈る気持ちで気配を消すことに一生懸命だった

☆幼稚園時代

音楽に力を入れていた園で、外部から音楽の先生が教えにきてくれていた記憶
大正琴の選抜組に選ばれ、ステージの真ん中で演奏させてもらった事がある

お遊戯会の劇で勇気を振り絞りお姫様役に立候補するも、クラス中から大ブーイングをくらう
鼓笛隊でも希望した楽器は却下され、大太鼓をさせられる
どちらも理由は太ってて似合わないから

☆ピアノはじめる

6歳の秋から姉と同じ先生に見てもらう
最初のレッスンの記憶は、始めに猫踏んじゃったを先生に披露して褒めてもらったこと
そしてバイエルでドの音を習ったこと

ぜーんぜん練習しない子だったが、幼稚園での音楽経験、姉の弾くピアノを聴いて真似してたこともあり最初はどんどん進んでいった

☆小学生時代

学校まで片道45分の道のりを歩いて通学…毎日しんどい
人見知り・消極的でお友達関係をうまく作れず
良い子でいなくちゃいけない、堅苦しい学校生活
生きにくいなぁ、大人になったら楽になるの?
そんな風に感じてた

皆はなぜ学校が楽しいのかしら?
小学校は大嫌いだった

小学生になるとピアノのレッスンは進まなくなった
だって練習をしてないから
毎度変化のないレッスンに先生はイライラ、私はビクビク
そんな空気に我慢できず、自分のことは棚にあげて
「先生が嫌だから…』と言って少3でレッスンを一旦辞める
(当時の先生ごめんなさーい!)

その後、2年間少年少女合唱団に入ってみたり、少しだけ箏(お琴)を習ってみたりした
いずれも色んな理由から続けられなかった

相変わらず太ってることでからかわれる
負けない様にと強がってみたりしたこともあったっけ
余計に変な子!と思われたりして…
1度5年生で13キロの減量に成功しグッとスリムになったが
それでも私のイメージは「デブ」であり、おーいでぶ!と石を投げられたりしてとても情けない気持ちに
太ってても痩せててもバカにされるのに変わらない
減量への熱意は消える

高学年でピアノが上手なお友達が数人でき、その影響でピアノを再開する
バイエルはテキトーに、姉が弾いてる素敵な曲や
お友達が弾いてるソナチネなどを真似して弾く
楽譜もたどたどしいが頑張って読むようになる

 

☆中学生時代

片道自転車で30分の通学…これまたしんどい
部活は迷わずブラスバンドへ
ホルンのマウスピース練習を頑張るも、先生に言い渡された担当楽器は「チューバ」
もちろん私の体型を見て薄笑いの先生…

中学では他学年の子からからかわれることが多く、学内でその子に合わない様非常に神経を遣った

熱心に勉強する方ではなかったが、一夜漬けの勉強でも成績は50位以内をキープできた

中学校でもピアノの上手な友達ができ、その後現在に至るまで良き親友・ライバルとなる
その子が弾くバッハやベートーベン、モーツァルトに衝撃を受ける
その友達は気前よく楽譜を貸してくれて、私も真似して弾いてみた
私は悲愴ソナタの3楽章が気に入り、初めての発表会で弾いたのが懐かしい♪

中二の終わり頃?ピアノの先生より音高を受けてみない?と提案される
しかし月々のレッスン料が10万はかかると聞き、母に相談するも「うちじゃ無理だねぇ」と諦める
でもそんな道もあるんだ、私にも可能性が…と嬉しかった

☆高校時代

母が希望する地元じゃ良い学校と評判の進学校へ進む
何を思ったか部活は柔道(運動オンチなのに!)
小さな部活だったが、先輩方がフランクで楽しく
きつい筋トレも練習も頑張れた
体重も減り筋肉も発達し男らしくなった笑
黒帯もあっという間にゲット♪

さすが進学校、みんな勉強ができる子ばかり
私はすっかりやる気を失い、成績は後ろから数えたほうが早い
一夜漬けで100点取ったり数学で0点取ったりした

ピアノの先生がご結婚されることになり、先生が変わる
大学出たての若い先生で、気さくで話しやすくて大好きだった
高2の終わり頃、この先生にも音大受験考えてみないか?と提案される
今度は諦めきれず両親にお願いするも、学費の面で反対される
練習を頑張ったり、反対する両親に反抗して登校拒否してみたり…
色んなことを経て、受験することが決まった

受験のための先生に代わり、本格的なレッスンが始まったのが高3の夏休み
受験までの時間と学費を考えると4年生は厳しい、との先生のアドバイスで通える範囲にある短大の音楽科、ピアノ科1本に絞ることに
レッスンはとても厳しかったが、、新しい知識を得ること、良い音にこだわることなどとても興味深く夢中で練習した
場馴れのために推薦入試受けてらっしゃいよ、と先生に促され受験を決めた3ヶ月後に受験
誰も受かると思ってなかったけど、合格通知が届く

やったぁぁぁぁぁぁ!


☆短大音楽科時代

片道2時間半の通学(今じゃもう無理)
仲良しの友達にも恵まれ、朝から学校が閉まる21時まで練習室にこもって練習の毎日
とっても充実していた
定期代と楽譜代くらいは自分で、とバイトも始めた

ピアノ実技は頑張った甲斐があり、2年間Aを頂けた
そして卒業試験のピアノ実技は見事1番!
これは担当教授もびっくりで「まさか君が一番取れるとはね〜笑』

卒演もトリで弾かせてもらえ、おまけに学校代表で読売中部新人演奏会という大きな演奏会にも出演させてもらえた

調律師さんのご厚意で中古のグランドピアノを格安で譲って頂く
格安といっても貧乏な我が家には厳しかった
でも母は買ってくれた

☆卒業後

短大時代からのバイトを続けながら、紹介してもらったブライダル演奏の仕事をポツポツやっていた
子供とどう関われば良いか分からなかったし、最初の手ほどきがの仕方が分からず、指導者になることは考えられなかった
ピアノ以外で仕事に就くなんて…と変なプライドもあり

なんとなーくダラダラ過ごす毎日
いつの間にかピアノ熱もどこかへ行き

父には、「お前を遊ばせるために高いお金出して短大行かせたんやないぞ』とチクリ刺される

 

☆結婚

22歳の誕生日の日、短大時代から付き合っていた夫と結婚
(今思うと、仕事をしていなくても何も言われない専業主婦になりたかっただけなのかもしれない)
主婦業に勤しむ
毎日きれいにお掃除して、部屋を飾り、お菓子作り、夕飯にも手をかけて…

この頃恩師の生徒を数人教えることになるが、自信の無さから苦痛になり1年ほどで辞める
お嫁入り道具としてピアノも持ってきたのに、見て見ぬ振り…すっかり触らなくなってしまった

☆出産

24歳の時、5分間隔の陣痛から25時間後に一人息子誕生
微弱陣痛でなかなか進まず、出血も多く死ぬ思いだった
でも無事産まれた息子は超可愛かった❤︎

☆子育て

想像の以上の大変さだった
乳児の頃は寝る時間なんてなかった
保育園に入ってお世話は楽になっても、そのほかいろんな問題がどんどん出てきた

私は自分がだらしないダメ人間だったので、息子はそうならない様に厳しく育てた
結果息子は小さい時に愛情不足になってしまって、その分を取り返すため中3となる今でもお母さん大好きーと!私にべったり
他人が見たら気持ち悪いかも?笑
でも良いんです!私も息子ラブですから!

自分が太ってて嫌な思いをしたから、息子は絶対太らせない様気をつけた
静かにさせるために安易にお菓子や幼児ドリンクを与える方もいますが、私は時々しか与えない様にし、食事に野菜をたくさん使った
結果あまり好き嫌いなく、お箸も早くから持たせていたため綺麗な食べ方で保育園の先生に褒めて頂いた

 

☆自宅教室開講

実は息子を何かしらの演奏家にしたくてピアノをならわせるも
私があんまりにもスパルタし過ぎて大嫌いにさせてしまった
息子にはかわいそうな事をしたな…と反省の毎日です

息子のレッスンに付き添ってた時、そのレッスンが自分の頃のレッスンと違って、すっかり新しいやり方になってたことに衝撃を受け、導入期のピアノレッスンにとても興味を持った

そこから自分も練習を再開し、同時に色んな導入テキストを購入し、勉強を始める
どんどんレッスンすることに興味が湧いてくる

2009年6月
お家を新築するのをきっかけに、防音のレッスン室を作り
大好きな息子の名前からと、どの子もキラキラ輝く子にという思いを込めて「きらきらひかるぴあの教室」を開講♪

☆最後に

最初は不慣れで迷いもあって失敗も数しれず…
ピアノへの熱い想いが暑苦し過ぎたり
私の指導力不足でピアノから離れていった子も…
本当にごめんなさいの気持ちです

失敗した経験や
練習をちっともせず中途半端だった自分のピアノ経験
息子をピアノ嫌いにしてしまったことの反省をレッスンに生かし
もっともっとピアノの楽しさを伝えていける先生を目指して
頑張っていきます☆


いろんな生徒さんに出会えたことは私の財産です

どの子もみんなとってもカワイイ!

これからもどうぞよろしくお願いいたします